短歌で随筆

一日一首、紹介&雑感。『フリックでコラム』の副ブログです。

カテゴリ: 短歌

物の葉やあそぶ蜆蝶しじみはすずしくてみなあはれなり風に逸れゆく/北原白秋
立秋の歌。

気がつけば立秋も過ぎ、随分と涼しくなった。

季節はずれのマスクも、再び時期相応のものになりつつある。

せめて文学の上だけでも、ちゃんとした秋を感じていきたいものだ。

わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣船/小野篁
隠岐へ流された折に作られたもの。勇ましく出発を宣言しているように見えるところが、かえって寂しさを強調している。

ちなみに「わたの原」はもう一首。

わたの原漕ぎ出でて見れば久かたの雲ゐにまがふ沖つ白波/藤原忠通

こちらは純粋に海の景色を表現したもの。雲と見紛うほどの白波がたっていた、とする。

おなじ言葉から始まり、まったく違う内容でおさまるふたつをあえて百人一首に入れたのは、やはり意図的なのだろうか。

知るほどに百人一首はおもしろい。

今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな/素性法師

「秋の夜は長い」ことを織り込んだ恋の歌。女性の立場で歌われているのも興味深い。

それにしても、人を待つだけで朝を迎えるだけの優雅な時間の使い方をしてみたいものである。これからの時代、間違いなく自由に使える時間は増えていく。その時をどう過ごすかは、ひとりひとりの人生観にかかっている。

中島らもは『今夜、すべてのバーで』の中でこう書いた。教養とは「ひとりで時間をつぶせる技術」だと。

歌とともに生きた平安貴族は、今こそ参考にするべき生き方なのかもしれない。

夏が来て綿毛は空へ放たれた 自由になりたいわけじゃなかった/嶋田さくらこ

しばしば自由の象徴のように扱われるたんぽぽの綿毛も、見方を変えるとこうなるのだ。

鳥のひなが初めて飛行するのとはわけが違う。綿毛は自由に空に舞っているというよりは、「空へ放たれた」存在だった。

我々人間も生まれたくて生まれたわけではなく、「空へ放たれた」存在であることに変わりはないのかもしれない。今度からたんぽぽの綿毛を見たときは、綿毛は自由でいいなあという目線でなく、お互い不本意な生だろうと頑張ろうよとなるだろう。

従来の綿毛イメージを転倒させる力のある歌てある。

月みればちぢにものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど/大江千里

秋=かなしい、というイメージで生きてきたが、これは日本人に染み付いた感性なのだろうか。徐々に長くなる秋の夜を過ごしているうちに、自然と物思いに耽り、鬱々としてくるのかもしれない。

この歌も、自分だけ訪れた秋ではないのに、どうしてかかなしくなるとしている。ひとりで涼しい秋の夜空を眺めてみると、なんだかこの歌と同じ気分になれたようで感動も大きい。お試しあれ。

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