短歌で随筆

一日一首、紹介&雑感。『フリックでコラム』の副ブログです。

2019年09月

転調ののちの明るさスコールが上がれば島は光を放つ/松村由利子

音と映像が一度に聞こえ、見えてくるような一首。スコールが一時的な「短調」に例えられている。

音楽と映像が見えてくるような…といえば、この度映画化で話題の『蜜蜂と遠雷』という小説がある。ピアノコンクールに挑む4人の登場人物を軸に、人生を音楽に掛けた者たちの葛藤や成長を描く。とある本の中で、著名な音楽評論家の片山杜秀先生がこの小説と作者を誉めていたのをみた。プロの評論家から見ても素晴らしい作品のようだ。

優れた文学からは、音や匂い、手触りや映像まで、あらゆる感覚が刺激される。表現の奥深さには驚かされるばかりである。

秋の田のかりほの庵のとまをあらみわが衣手は露にぬれつつ/天智天皇

農作業の苦労を詠んだ歌。天智天皇作とされているが実際に本人が作ったのではなく、歴代天皇のひとりとして尊敬されていた天智天皇の名を借りて知られるようになったようだ。確かに、偉い人が農民の暮らしまで理解している、と考えれば農民としては嬉しいだろう。

百人一首の一番始めに登場するということで、だいたいみなこの歌くらいは覚えている。歌の内容の地味さから考えるとなんだか不思議な感じ。いかに順番が大事か、というのがよくわかる。

秋の田の、春すぎて…この二つはいつまで経っても覚えているものだが、後が続かない。たった百首、されど百首。このブログを続けていくうちに、今度こそすべて覚える日がくることを期待したい。

恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか/壬生忠見

あいつは恋をしているという噂がたってしまった、人知れずに思い始めたというのに、という歌。

これも百人一首のひとつである
しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで
と同じ歌会で詠まれたものであり、どちらもあまりの優れた出来に勝敗は拮抗したとか。

周りに噂されるほど色めき立っている時点でどっちも失格だよ、と断じた庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』を読んだばかりでもあって、つくづく歌の印象なんて人それぞれだと思う。

両歌は「忍ぶ恋」をテーマに競ったそうである。忍ぶ恋をテーマに「忍ぶ」を言ってしまうのは禁じ手なのではないか…と思う私は「恋すてふ」推しである。

あなたはどっちにする?

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり/寺山修司

ふたつの解釈があるそうだ。

海を見てみたいなどと呟いた少女に、海はこんなもんだぞと必死になって説明している少年。青春映画のワンシーンのような光景が浮かぶ。

もうひとつ。

海すらも知らない片田舎の小さな町で育った少女が、外の世界に飛び出したい年頃に差し掛かる。常に側にいて共に成長してきた少年は、遠くにいってしまいそうになる少女を必死に止めようと精一杯とおせんぼをしている…。こちらは、青春マンガの一ページのようだ。

演劇の人、『書を捨てよ、町に出よう』の人で知られる寺山修司は、最初は歌人として知られた。短歌の世界も、寺山修司本人の内情、心境というよりは、映像的、舞台的な気がする。

多様な読みを認めるフィクションとしての短歌。とても興味深い一首である。

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君/与謝野晶子

数多くある恋の歌の中でも、ひときわ燃える恋の歌を作った与謝野晶子。
 
歴史的に「奥ゆかしい女性」の歌が多い中で、ひとりの熱き女性としての思いが全面に表れた歌は、現代の女性にも共感を与えるものだろう。

男というものは、愛や恋などそっちのけで理想や夢を語りがち。ひとりの世界に浸りながらも自覚がない男性に対し、一番近くにいるのに振り向いてもらえない女性の立場からの一途な思いが読み取れる。

俵万智の現代語訳もシンプルで素晴らしい。

燃える肌を抱くこともなく人生を語り続けて寂しくないの

「寂しくないの」の部分に、元の歌の良さである女性の主体性が維持されている。

出典:
みだれ髪 (角川文庫)
与謝野 晶子
2017-06-17


このページのトップヘ