短歌で随筆

一日一首、紹介&雑感。『フリックでコラム』の副ブログです。

毒入りのコーラを都市の夜に置きしそのしなやかな指を思えり/谷岡亜紀

今でこそ道端に置いてあるビンやカンに残された飲み物など、誰も飲みはしない。誰が残したものかわからないし、毒が入っているかもしれないのだ。

そんなばかな、と思いながらも実際に誰も口を付けないのは、実際に「そんなばかな」ことがあって死んだ人がいるという教訓があるからだろう。

都市という人口密集地特有の匿名性は、人が人でなくなるような構造的問題を含んでいる。きっと毒入りコーラを作る人物は、大した思い入れもなく、ただ淡々と飲み物を作ったに違いない。

FAXで送られてくる字の細さ 疲れたひとは物陰にゐる/黒木三千代
字は人を表すもので、小さい字、細い字、丁寧な字、止め跳ね払いの処理の仕方等々、わずかな字からでもどんな人物かを想像することはできる。

電話でなく、FAXを使ってやり取りをする相手。どんな人物なのか、いろいろと想像しているのだろう。

夜ふけし月の光は身に沁みて庭木のあひに安らぐものを/高田浪吉

一日の労働を終えた夜のひととき。ほっとしている半面、また明日も仕事だと言わんばかりの絶妙な表現が使われている。

月のぼんやりした輝きと、安堵とわずかな不安が入り交じった気持ちが溶け合った歌だ。

電車にて十分あまりまどろめばあはれ楽しき夢の断片/長澤一作
電車ではよく寝るタイプだ。

始めこそ本を開いているが、きまってうつらうつらしてくる。読んでいるところに指でも挟み、いよいよ本格的に目を閉じる。

電車の中でのまどろみ、けっこう好きである。本を抱えて寝ることが多いが、一度も落としたことがない。寝過ごすこともない。不思議なものだ。

夢の断片、わかる気がする。すこしだけ夢の世界に行くというか。浅い眠りほど夢を見やすいというが、まどろみもまた夢の入り口。気持ちの良い電車内の一シーンが浮かぶようである。

人生に意味などないさ彼岸花燃える畦道泥む夕暮/しゅろ

日本のヒガンバナは、クローンのようにして殖えるという。種子をつくることができないため、理屈からすれば受粉も意味がなく、花を咲かせる必要もない。それなのに、わざわざ多大なエネルギーを使って、あの風変わりな形の花を咲かせる。

ヒガンバナは見た目から生態まで何から何まで変わっているために、古くから不吉だとも特別だとも言われてきた。そうやって勝手に意味付けているのは人だけで、ヒガンバナはそんなこともお構い無しに今年も咲くのだろう。

淡紅うすべにの花ゑんどうを摘む五月わが腕ただむきもまろらかに肥ゆ/岡本かの子

五月という時期をこの上なくポジティブに歌ったもの。

花ゑんどうはスイートピーのこと。薄ピンクの花と、健康的な自身の腕の色を重ね合わせている。

春というには遅すぎて、夏というには早すぎる今の時期の特徴がよく乗った歌である。

たそがれの鼻唄よりも薔薇よりも悪事やさしく身に華やぎぬ/斎藤史

世に美しいとされるどんなものよりも、時に悪事のほうが魅力的のことがある。

やさしく身に華やぐ、という表現が美しい。今の時代にはないオシャレさがある一首。

過ちを認めたくなくて誰よりも美しい平行線を引く/しゅろ

業種柄、訂正をよくする。

二重線を引いて印鑑を押す、あれだ。

今でこそさらさらと書類を作ることができるが、昔はどう慎重にやっても、どれほど再確認しても、なぜか間違えた。
 
頭を使うような難しいことならまだしも、簡単なことなのに間違えることが自分でも理解できず、悔しくて仕方がなかったあの頃を今でも忘れることはない。

せめて訂正の二重線だけは美しく。そんな気持ちを歌ったものだ。

牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる/伊藤左千夫

歌は元来貴族のものである。平安和歌を思えば、誰も彼もみな特権階級ばかり。それが明治の世になって、庶民にまで歌をよむ文化が広がったことを、牛飼であった作者自身粋に感じていたのだろう。

歌に親しむようになって感じるのは、自分が想像している以上に「短歌」を読み、作る人がいるということだ。

日本最古の長編小説である『源氏物語』にしても、随所に歌が織り込まれている。我が国は小説以前に歌がある文化を持つ。

意識せずとも歌に親しむ下地が、自分たちにはあるのかもしれない。

「また電話しろよ」「待ってろ」いつもいつも命令形で愛を言う君/俵万智

和歌で定番なのは辛抱強く待つ女であるが、ここに登場するのは単に待つことを強要することしかできない男の姿だ。

歌の内容から、その男に対する批難めいたものは感じられない。それだけに、かえって男の情けなさが浮き彫りになって、痛烈な風刺になっているのではないだろうか。

俵万智得意の「会話仕立て」も光る一首。

殺すぞ!
と云えばどうぞとほほゑみぬ
其時フツと殺す気になりぬ/夢野久作

日本の三大奇書のひとつ、『ドグラ・マグラ』の作者である夢野久作は、短歌も不思議な作風である。

推理小説の一シーンがそのまま短歌になったような、奇抜な歌。今から100年前にこんな歌を作っているのがすごい。

このあとなにが起こるのか、サスペンス臭たっぷりな一首だ。

ながむれば思ひやるべきかたぞなき春のかぎりの夕暮の空/式子内親王

ぼんやり眺めていると、思いを放つ先もない春の最後の夕暮の空よ。

春のかぎりの、という言葉が光る。

春は曙、秋は夕暮と言われるのは、もちろん『枕草子』の影響であるが、あまりにも強く意識付けられてしまった。

見わたせば山もと霞む水無瀬河ゆふべは秋となに思ひけむ/後鳥羽院

秋は夕暮だなんて誰が言ったのだ、と言わんばかりの春の夕暮賛美の歌。歌人としてのプライドが感じられる。

春は曙、秋は夕暮にしても、もともとは春は桜、秋は紅葉に対するアンチテーゼだ。いつの日か、これらを凌駕する、または止揚する春秋のイメージが作られるかもしれない。

死はそこに抗ひがたく立つゆゑに生きてゐる一日ひとひ一日はいづみ/上田三四二

医者であった作者が、自身の病状を理解した直後に作ったという歌。

自らが医師であったことで、誰よりも病状がわかってしまうという事実が、よりこの歌の深刻さを高めている。

死を自覚することが生をより輝けるものにする、と考えたのは哲学者のハイデガー。スティーブ・ジョブズもかの有名なスピーチの中で、今日が人生最後の日ならば自分は何をするべきか考えて生きろと説いた。

誰もがまだ先だと考える自分の死だが、こういう作品を折に触れてみることで、自分事として感じることも大切だろう。

やすらはで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかな/赤染衛門

来ないとわかっていたらためらわず寝ていたのに。夜が更けて月が西に沈んでいくまで眺めていたことですよ。

会いに来ると言っていた男性が来なかったときの歌。非常にシンプルだが、人を待つときの気持ちが端的に現れている歌である。

恨みがましくもなる場面だが、詩に昇華してしまう作者に今の時代を生きる者にも学ぶべきところがある。悪いのは完全に相手の男だが、こうやって作品にして永遠に残すことで、はかりしれない復讐をしてしまった。

自分の気持ちをこういう形で表現できること、とても素敵なことではないだろうか。

つくばねの峰より落つるみなの河恋ぞ積もりて淵となりける/陽成天皇

筑波山の峰から流れ落ちるみなの河が、積もりに積もって淵となった。あなたへの恋もそれほど深いものとなりました。

詩人の萩原朔太郎は(内容はともかく)耳だけで聴くべき歌だ、とほめているのかけなしているのかわからないような批評をしていたようだ。

確かに、意味的には普通だが、「つ」、「み」、「ね」が複数出てくるところにリフレインのおもしろさがある。それ以上でもそれ以下でもないといえば、元も子もないが。

もうひとつ興味深いのは、作者の陽成天皇は歴代天皇の中でも有数の「ちょっとヤバい人」だったとか。数多の奇行で知られた人物だったそうで、後世に残っている歌もこの歌一首のみ。それでも、百人一首のうちのひとつであるという事実に、選者の藤原定家の胸のうちが気になるところだ。

奇行で知られた作者だという前提でこの歌をよめば、むしろこの歌の凡庸さが不思議に思えてくる。そんな普通なこと言っちゃう人たったっけ、という倒錯した驚き。

そういう意味でこの歌が入っているのだとしたら、それはそれでおもしろいではないか。

こよひはや学問したき心起きたりしかすがにわれは床にねむりぬ/斎藤茂吉

「しかすがに」は「そうはいうものの」という意味で、万葉集で使われていた言葉だそうだ。

勉強しようかな、と思ったときには既に布団の中。あまりにも「あるある」な現象ではないだろうか。

心が起きるとき、体は寝ている。この対比もおもしろい。誰しも、そういう瞬間ってありますよね。

世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる/藤原俊成

世の中というものは、憂いから逃れるすべはないのだな。思いつめて入った山奥でさえ、鹿の哀しげな声が聴こえるのだから。

作者は藤原定家の父で、27歳のときの歌だとか。若者特有の厭世感は、今も昔も変わらないのではないだろうか。

歌は純粋に世の中を憂いているものだが、どうやら「政権批判」と解釈されかねない事態にもなっていたそうだ。世の中に道なし=今の政治は駄目だ、と。誤解や曲解が跋扈する人間社会の有り様も、今とまったく変わらない。

歌はいろんな解釈をゆるすものではあるが、言ってもいないことを「解釈」されるリスクを孕むものでもある。現代を生きる我々は、Twitterなどで起こっている「解釈」の応酬を目にしている。俊成と同じように、山にでも入りたくなるどうしようもない世の中だが、逃れる道などないのだ。

それでも、人生の厭世期を抜けた先に次の人生観が待っている。それも、あまたの人間が証明してきているのだから。

街頭のつつじ数十眺むればつばきのごとく捨てし日を恥づ/しゅろ
つつじがきれいな季節なので作った。

毎年、街でつつじを見るごとに、花の蜜を吸っていた子供の記憶がよみがえる。

むしった花はひとつやふたつではなかったはず。なんということを。

鯉のぼりほうとふくらみくたと降るこの緩慢なる力見よとぞ/川野里子

5/5ということで鯉のぼりの歌。

男の子の勇ましさを象徴する鯉のぼりではあるが、風の力なしに泳ぐことのできない姿からは、完成された強さではないことも感じ取れる。

例年広島カープは鯉のぼりの季節まで強いと言われてきたが、三連覇を果たした後は誰もそのようなことは言わなくなった。

鯉のぼりの季節まで強いカープも、今のカープもどちらも好きだ。早く野球が日常に戻ってくることを願う。

教えてよそろそろ私が何界の運慶なのかモーツァルトかを/しゅろ
夏目漱石『夢十夜』第六夜からのインスピレーション。

モーツァルトには『アマデウス』のイメージが多分に入っている。

すべての普通の人の思いをのせて。

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