短歌で随筆

一日一首、紹介&雑感。『フリックでコラム』の副ブログです。

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする/式子内親王

私の命よ、絶えるならば絶えてほしい。生きていると忍ぶことができなくなってしまうから。

玉の緒は命を表す。忍ぶ恋の名歌として、百人一首に入っている。

絶えなば絶えね、の言いぶりに凄みを感じる。生きるほどに辛い恋が伝わってくるようだ。

鷗外の口ひげにみる不機嫌な明治の家長はわれらにとおき/小高賢

森鷗外や夏目漱石、正岡子規など、明治の偉人は思うよりよっぽど若い。

あの貫禄は時代がそうさせた、というべきものなのだろう。今の40,50代はまだまだ先が長くて、良い意味で若い、悪い意味でこどもっぽさを残していたりもする。

家長は既に過去の概念と成り果てたが、明治の人々の威厳は、大きな権限と引き替えに負った責任感の賜物なのかもしれない。

終りなき時に入らむに束の間の後先ありや有りてかなしむ/土屋文明

作者92才、94才で亡くなった妻を思って作った歌。

自身も死の世界に行くのは時間の問題だけれども、やはり先立たれるのは悲しいと歌う。率直な物言いが、余計に心をうつ。

92才が作る相聞歌。

とても太刀打ちできそうもない。

由良の門をわたる舟人かぢを絶え行方もしらぬ恋の道かな/曾禰好忠

由良の門を渡る舟人が櫂をなくして海に漂っているように、私の恋もまた行方が知れないようだ。

意味を掴むと非常に理解しやすい歌である。流されるままの恋の行方は、今の昔も変わらない。

百人一首のひとつである。

紫のいたましきまで一人踊るスカートの陰影かげに春はくれゆく/北原白秋

揺れ動く心情がそのまま身体表現になったような、見事な描写。

「紫」という色の選択が絶妙。黄色やピンクでは明る過ぎるし、緑も違うし、黒やブラウンでもなかった。

舞台芸術がそのまま歌になったかのような、イメージ鮮やかな一首である。

今しばし死までの時間あるごとくこの世にあはれ花の咲く駅/小中英之

病気を持ち、常に死を意識する人生だったという作者。

死までの時間あるごとく、との書きぶりから、普段から死まであとわずかだと思っていたことが伺える。

唐突に見た美しい景色、急に意識する眼前の風景は、時間の流れさえ変え、永遠のように感じることがある。

何気ないいつもの風景が、突然永遠のものに変わる感覚が良く表現された一首だ。

真夜中のタクシーに乗りまどろめば永遠に無縁の学ぞ神学/藤原龍一郎

忙しくて仕方のない毎日の中で、ふと学問や理想を語り合ったあの頃を思い出す瞬間。それが、疲れはてて、ついうとうとしたタクシーの中だった。

一時期を学問に捧げた者にとっては、とても共感度の高い歌である。あの頃興味を持っていたあの学問として、「神学」が選ばれているところも絶妙だ。

ちなみに私は労働法学だった。神学よりは身近な学問なので、実生活に活かせる知識。時折ふと、それって労基法違反なんだけど、なんて思ったりもする。

学問が実生活と離れたところにある寂しさ。一時期ではあるが学問に身を捧げた者として、もっと世の中の意識を変えていきたいと思う。勉強なんていつやってもいいではないか。

ためしにこんな本、どう?

水銀の如き光に海見えてレインコートを着る部屋の中/近藤芳美

独特の世界観がある短歌。

どういう状況なのかわかるようでわからないのがおもしろい。水銀の如き光はまだ良いが、光に海が見えるとはどういうことだろう。

そうしたらなぜ、部屋でレインコートを着ることになるのだろう。

辻褄の合うような解釈を探ってみるのも、短歌を味わうひとつのやり方かもしれない。

ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアひまはり/永井陽子

この歌がなぜ有名なのか、最初に知ったときはまったくわからなかった。

ずっとわからないままだったのだが、ふとした時に「アンダルシア ひまわり」で検索し、出てきた写真を見て、いっぺんにこの歌の言わんとしていることがわかってしまった。

アンダルシアといえばひまわり。ひまわりといえばアンダルシア。それくらい、この地のひまわり畑は絶景なのである。

一度で良いからあの景色を見てみたい。けれども遠い。遠いけれども行きたい。切実な思いが、ユニークな歌のつくりによって見事に表れている。

作者は結局、アンダルシアに行くことなく亡くなってしまったという。その事実がまた、この歌の切なる願いを強くしている。

勲章は時々の恐怖に代へたると日々の消化に代へたるとあり/森鷗外

勲章は、戦争や恐慌などの恐怖や日々の仕事がもたらすのだ、とする。

真にその通りだろう。

本当に成長したと感じるのは、常に胃が痛くなったあとである。理想は、楽しみながら成果を出すことだが、そんな甘い世界などどこにもない。

官僚でありながら、文化人の顔も持つ鷗外ならではの実感なのであろう。

球形のまとまりくれば梅雨の花あぢさゐは移る群青の色に/宇都野研

アジサイの季節が近づいてきた。

雨ばかり降る憂鬱な時期ではあるが、この花がせめてもの彩りである。

ちなみに私はアジサイと聞くと、さだまさしの『縁切寺』をイメージする。ちょうどこの時期の歌で、憂鬱な季節感と沈んだ内容がよくマッチしている。好きな曲のひとつなのだが、もう二度とこういう曲は流行らないだろうな…。

こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり/山崎方代

一杯の温かいお茶に思いがけない幸福を覚え、これまでの不遇な人生と比較して戸惑っている様子。

豊かな時代を生きる自分たちには及びもつかない、壮絶な過去が感じられる。

ただ、あまりに辛い出来事があった後に、一杯のお茶でも出してもらえば、この歌の状況に近いものはあるかもしれない。

「しどろもどろ」の表現に偽らざる思いがこもっている。

いちはつの花咲きいでて我が目には今年ばかりの春行かんとす/正岡子規

自身の死期を悟った作者が、これが最後の春になると思い歌ったもの。

春の定番「桜」でなく、「いちはつの花」に思いを寄せているのがにくい。

この際だから、いちはつ、調べてみると紫色の鮮やかな花。アヤメ科の多年草だそうだ。

梅に柿に藤にヘチマに薔薇に。正岡子規の文学には常に植物が出てくる。人がさほど気にとめないものを徹底的に観察する姿勢。短歌の素材はいたるところに転がっているということだろう。

人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ/若山牧水

私も酒が好きなほうである。

とはいえ、好きだと自覚しているからこそ、休日だけにしているし、嫌な気分を紛らわすために飲んだりはしない。

酒を飲まない人生になんのたのしみがあるのか、とまで言う牧水の歌はある意味潔い。いまの時代から言わせれば、アル中だったことは間違いないが、酒で死ぬなら本望と言わんばかりの態度には、もう好きにしてくださいとしか言えない。

中島らもの『今夜、すべてのバーで』というアル中を題材にした小説でもそうだったが、酒の旨さを伝えることに関しては、アル中の右に出る者がいない。酒に関して究極の表現を求めるには、アル中になるしかないのかもしれない。そう思わせるほど、中島らもの小説は素晴らしかったし、牧水の歌にしてもそうである。

髪ながき少女とうまれしろ百合に額は伏せつつ君をこそ思へ/山川登美子

『明星』において、与謝野晶子と双璧を成す歌人であった作者の代表作。与謝野晶子が外へ発する激しい思いを歌うなら、山川登美子は内に秘めた思いを歌う作風が特徴のようだ。

晶子と同じ男性(与謝野鉄幹)を愛してしまうという、嘘みたいな本当の話も、歌の意味合いをより深いものにする。

自身の魅力に自覚的でありながら、決して明かさぬ思いを歌に込めるつつましさがなんともいじらしい。

秘する恋における名歌である。

神田川の緋鯉にパンを投げている昼の休みのサラリーマンたち/大島史洋

サラリーマン川柳をもう少し文学的に表現してみた、といった感じの短歌。

つかの間の昼休みを使って、鯉にパンを放るサラリーマン。しかも複数。哀愁溢れる光景に、思わず涙も零れる。

コンビニのパンであろうことも哀しいし、鯉に癒しを求めているのも哀しい。

ただし、決して哀れだとは思わない。懸命に働くサラリーマンたちの、ありのままの姿であり、リアルな日常を感じる。

神田川といえば、南こうせつの名曲も連想する。どうもこの川は、「哀愁」とセットになりがちなようだ。

ただひとり吾より貧しき友なりき金のことにて交まじわり絶てり/土屋文明

金の貸し借りだけはするな、貸すくらいならやってしまえ、と言われて育った。子供ながらもこの言いつけの重みは強く感じたもので、大人になった今でも守り抜いている教えである。

金など幻想に過ぎないと理屈ではわかっているが、皆がその幻想を信じている以上、やはり並ならぬ魅力があるのは事実である。

親のおかげで、特に金に不自由することなく育った。「金がない」状態の本当のこわさ、不安、心理はわかっていないと思う。だからこそ、より一層敏感にならないといけないし、考えないといけないと思っている。金がすべてではないと言えるのは、そこそこ金がある状態の者のみが言える虚言だ。たかが金、されど金。ひとつ間違えば友を失うことにもなりかねない。悲しくも真理を歌ったものであろう。

他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水/葛原妙子

この世のものとは思えない独特の視点が印象的な歌。

前衛的な世界観は現代短歌の先駆けともいえるだろう。

動物園に行くたび思い深まれる鶴は怒りているにあらずや/伊藤一彦

動物園の鶴に、野生としての誇りと人間への義憤を重ねている。

動物を通して人間の存在を巧みに風刺した作品として、『けものフレンズ』を思い出さずにはいられない。人間のいなくなった世界に生きる「フレンズ」たちの純真無垢な姿は、現実社会を生きる私たちのあり方を嫌でも思い返させた。

『けものフレンズ』第二期を巡る騒動まで含めて、このプロジェクトの仕掛けの一部だったのだと思わずにはいられない。皮肉もいいところだが、それもまた人間なのだろう。

かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は/大西民子

結婚、死産、離婚を経験したのちに歌集を出した作者。

待つ苦しさも一緒にいる苦しさも知って、寂しくも決然とした態度がこの歌に見て取れる。

喪失を表す「幻の椅子」が印象的。この椅子は実際にあるものなのか、去った夫の使用していたものなのか。そんなことも、今となってはどちらでもよいのだろう。

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