短歌で随筆

一日一首、紹介&雑感。『フリックでコラム』の副ブログです。

受話器まだてのひらに重かりしころその漆黒は声に曇りき/大辻隆弘

今は失われし、重かった受話器、黒色の電話、そして声に曇る話口。

歌にしなければ二度と顧みられることのない事象が、鮮やかに書き留められている。

内容はシンプルだが、同じような歌が作れるかといえば意外と思い付かない。写実的な描写の真骨頂と言える歌なのではないだろうか。

はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢつと手を見る/石川啄木

生活が苦しいわけではないけれど、じっと手を見る経験ならある。生活に根付いた動作であり、あまりにも普遍的な内容なのがすごい。

詩としてどうなのか、意見は分かれるようだが、率直な物言いもまた、これはこれでおもしろい。わかりやすく、口ずさみやすい啄木の真骨頂である。

向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ/前田夕暮

もう間もなく真夏が迫っている。

真夏の代表花、ひまわりを歌ったものをご紹介。

「ゆらり」という表現が、背の高いひまわりらしくもあり、猛暑で景色が歪んでいるかのようなイメージをも含んでいる。

日が小さいと言っているのは、対してひまわりが大きいということ。画面一杯写るひまわりと遠くにある太陽。写真の構図すら浮かんでくるような歌だ。

陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに/源融

陸奥の摺り衣の模様のように乱れる私の心は、いったい誰のせいなのでしょうか。

「に」が良いアクセントになっている。京都周辺が多い百人一首の中では珍しく、東北の地名が出る歌だ。

しのぶもぢずりがわからないとイメージしにくいが、検索すればすぐに見られる。この機会に是非。

かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ/若山牧水
若山牧水といえば、大酒飲み、というとまだ聞こえはいいが、いわゆるアル中だ。

かんがへて飲みはじめたとはいうが、実のところ飲むことは決まっているのである。自分でもわかっていて、それでも「よそうかな、飲もうかな」と少しだけ考えながら飲み始めるのがオツというものなのだろう。

一合の二合の、と言っているので、もうこのまますすむことは間違いない。

夏のゆふぐれなんてお洒落な言葉でまとめているところがニクイが、なんのことはない、酒飲みの戯言をそのままうまく言ってしまった愉快な歌である。

変わらないことも一つの答えだと思う北極星のまたたき/杏野カヨ
短歌投稿サイト『うたらば』より引用。

変化し続けることが是とされがちな現代。変わり続けることこそが正解だ、と言わんばかりの主張は、変われないことによる脱落やふるい落としをも正当化してしまう。

すべての星の中でただひとつ動くことのない北極星は、変わらないことを強みに変えたことで唯一無二の存在。そういう生き方だってあることを教えてくれているようだ。

ストレートだが心に響く一首。

はつなつの かぜとなりぬと みほとけは をゆびのうれに ほのしらすらし/会津八一
ひらがな表記と一字明けの連続が特徴的。

初夏の風となったのだなと、仏様も指の先でお感じになっていることでしょう。

初夏の風を敏感に感じ取っている。

ちなみに初夏は5月くらいのことだとか。梅雨入り前の清々しさを歌ったものだとすると、なかなか腑に落ちる歌である。

もろともにあはれと思へ山ざくら花よりほかに知る人もなし/行尊

互いに愛しいものと思ってほしい山桜よ。他に知る人もいないのだから。

山桜に寂しい思いを託す。シンプルだがしみる歌。

憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを/源俊頼

私につれないあの人が私を思ってくれるようにとお祈りしたのに、初瀬の山おろしよ、まるでお前のようにいっそう激しく冷たくなれなどとは願わなかった。

もともとは「初瀬の山おろし」で切れていたらしい。そう考えると、第4句の「はげし」がより音として生きてくる。個人的にはこちらのほうが好きかも。

カルタ界隈では「うかりはげ」としても有名。上の句「うかり」を聴いて下の句の「はげ」を取るのだ。どうぞ覚えてみてください。

ブラウスの中まで明るき初夏の陽にけぶれるごときわが乳房あり/河野裕子

明るい初夏の陽射しと女性性の肯定が気持ちよく結び付いている。

「けぶれる」というニュアンスが絶妙。女性うたの秀歌である。

おもひわびさても命は有るものをうきにたへぬは涙なりけり/道因法師

耐えられないほど思い侘びても、命だけはどうにかあるものの、憂いに耐えられないのは涙なのだ。

恋の歌だとされているが、さほど評価の高い歌ではないそうだ。意味として取りやすいが、特に目新しいことは述べられていない。

百人一首の歌だが、ごく普通の印象を受ける一首。

崖の上にピアノをきかむ星の夜の羚羊かもしかは跳べリボンとなりて/前登志夫

メルヘンチックな一首。

崖から崖へ優雅に跳び移る様を表現したもの。本来は危険や絶望の象徴である崖を、ひらりとこなしていくカモシカに美しさをみる。

短歌には珍しい種類の歌である。

〈あの人つて迫力ないね〉と子らがささやく〈あの人〉なればわれは傷つく/花山多佳子

子どもは正直だ。

本当のことをストレートに口に出すから、時として大人よりも恐ろしい。

私は少々楽器を嗜むのだが、子どもの前で演奏したときは本当に嫌だった。たいしてうまくないことは自覚しているが、大人なら気を遣って何も言わないでくれるところ、子どもは何を言うかわからない。幸い何も言われなかった。(うまいとも言われなかった。)

子どもの無邪気で残酷な描写がよく現れた一首。迫力ないねなんて言われたら、多分一生引きずる。

恋人の好むホワイトアスパラが皿に香って 指に似ている/松平盟子

とても清潔感のある恋愛感情が気持ち良い。

ホワイトアスパラを短歌に取り込んでいるのも新鮮だし、それでいてよく効いている。皿に香る、という表現も綺麗。

女性ならではの視点が生きた一首。

笑ひ声絶えざる家といふものがこの世にあるとテレビが言ひぬ/小池光
終わりつつあるといわれるテレビだが、まだまだその影響力は絶大なものがある。視聴率1%というとほとんど誰も見ていないような番組に感じるが、少なくとも110万人は見ていることになるらしい。

どれだけ盛り上がっているYouTubeのライヴでも、100万人も見ているチャンネルなんて見たことがない。それだけテレビというメディアは格が違う。

テレビしか楽しみがない、なんて人はごまんといるし、そういう人たちを悪くいう気はさらさらない。だが、テレビが流すことがその人の世界観に影響を与えるのも事実。テレビの世界と現実感にギャップを覚えたとき、なにやら不穏なムードが漂う。

私は、大勢が共有すべきコンテンツとして今後もテレビは必須だと考えている。それだけに、テレビ番組には多様で多彩な世界観を示し続けてほしいものだ。

七月のひと日くもりて暮るるころ庭におりたちて笹を移しぬ/斎藤茂吉

せっかくの七夕なので、それらしい短歌を探したらこの歌を見つけた。

特にこれといった表現はないものの、まさに7/7であることがわかってしまうのがうまい。

昨日は日本中が大雨で、九州の方は特にとんでもないことになっている。今日晴れて、とは言わないので、せめてこの災害が止むことを祈るばかりである。

風そよぐ楢の小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける/藤原家隆
楢の小川は京都の御手洗川を指す。みそぎは旧暦6月30日に行われる六月祓のことで、今の8月上旬あたりになる。

夏に名残惜しさを感じるのは、今も昔も同じらしい。真っ盛りのときはあれだけ鬱陶しい暑さも、過ぎてしまうのは寂しい。

そういえば、最近よく聴いている音楽にヨルシカというバンドの曲があるのだが、彼らの曲には「夏の終わり」がテーマの曲が多い。『ただ君に晴れ』、『雨とカプチーノ』、『夜行』など。

夏の終わりは、今も昔も日本人の琴線に触れるひとつのツボなのだろう。今風に言うならばエモい、だ。

百人一首の中でも一際エモい一首。日本の夏を感じよう。

有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする/大弐三位

しばらく連絡がなかった男性から久しぶりに連絡があったかと思えば、「あなたが心変りしていないか心配だ」と言ってきたことに対して歌われたもの。

有馬の風景に掛けて、そよ=風のそよぐ音=そうですよ、どうしてあなたのことが忘れられますか、と雅に返した。

歌の背景を知るたびに、平安時代の貴族はなんと優美なことをしていたものか、にわかに信じがたくなる。ただの芸術を越えた、コミュニケーションツールとしての短歌。なんと文化的な行いだろうか。

世の中はつねにもがもななぎさ漕ぐあまの小舟のつなでかなしも/源実朝

日常のなんでもない光景にふと、とてつもないかけがえのなさを感じることがある。その瞬間、痛切なかなしみを覚えることもわかる話だ。

作者は鎌倉幕府三代目将軍。たいそうな肩書きとは裏腹に優れた歌人として知られ、本来は政治とは離れた世界にいたい人物であったようだ。
 
歌の持つ無常感と、政争に巻き込まれ、28歳で暗殺される作者の運命とが相まって、心に響くものとなっている。

あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり/斎藤茂吉

あかあかと照らされた一本の道があって、この道こそが自分の進む道だという。「たまきはる」は命に続く枕詞。

心象風景のような実際の光景のような内容に、意外なほどシンプルな意味の組み合わせがおもしろい。

自分の進む道を毅然と表面しているようでいて、読む人にも共鳴しやすい一般性をもつ名歌である。

このページのトップヘ