短歌で随筆

一日一首、紹介&雑感。『フリックでコラム』の副ブログです。

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君/与謝野晶子

数多くある恋の歌の中でも、ひときわ燃える恋の歌を作った与謝野晶子。
 
歴史的に「奥ゆかしい女性」の歌が多い中で、ひとりの熱き女性としての思いが全面に表れた歌は、現代の女性にも共感を与えるものだろう。

男というものは、愛や恋などそっちのけで理想や夢を語りがち。ひとりの世界に浸りながらも自覚がない男性に対し、一番近くにいるのに振り向いてもらえない女性の立場からの一途な思いが読み取れる。

俵万智の現代語訳もシンプルで素晴らしい。

燃える肌を抱くこともなく人生を語り続けて寂しくないの

「寂しくないの」の部分に、元の歌の良さである女性の主体性が維持されている。

出典:
みだれ髪 (角川文庫)
与謝野 晶子
2017-06-17


足りないとわかりつつも立ち向かうちりがみ一枚牛乳の海/大川高志

生きている中で、「言わなくてもいいことだけど確実に起こった出来事」というのが無数にある。

短歌をちゃんと読み始めてからというもの、いかに短歌が瞬間瞬間の「何でもなさ」を切り取ってきたかが感じられるようになってきた。

小説にするほど報告価値がなく、詩にするほどのネタでもなく。でも、それは確かにあったことなのだ。そんな瞬間を形にする手段として、短歌ほど適したものがあることを私は知らなかった。

「ティッシュ」というお題で作られたという冒頭の歌。確実にこういう瞬間は起こる。誰か、もしくは自分で倒した牛乳瓶、こぼれたものは拭かなければならない。

慌てた彼(もしくは私)だが、持ち合わせはティッシュ、しかも一枚しかなかった。どうする、でも、それで拭くしかないのだ。さあ、いざ!

よくある日常の一コマも、この短歌がなければ永遠に忘れ去られるシーンになってしまうと思えば、なんだかものすごい価値のある一首に思えてくる。短歌ってすごい。

中学生のときに、これと同じレベルで「言わなくてもいいことだけど確実に起こった出来事」を短歌にしたことがあった。当時はまだまだ短歌に興味があったわけではなく、授業の一環かなにかで作ったのだけれども、我ながら自信作だったのか今でも書き出せる。

黒板に書かれた文字と見比べるすべて書けるか最後のページ

そういうこと、ありませんでしたか?

出典:
冒頭の歌はこちらから引用しました。

抜かれても雲は車を追いかけない雲には雲のやり方がある/松村正直

昨今世間を騒がせるあおり運転。あおられたらどうするという問題はあるけれども、まずは我が身を振り返って、平静な運転をしているか考えておきたい。

雲には雲のやり方がある、という下の句が独特だ。雲をまるで意思があるかのように捉え、そこに悠然とした姿を見る。車と競うことなく、自分のペースで進む雲。それが、雲なりのやり方なのである。

運転の場面だけでなく、「競争」の場面一般にもいえるかもしれない。あの雲のように、自分なりのやり方で進んでいけるだろうか。

たっぷりと真水を抱きてしずもれる昏き器を近江と言えり/河野裕子

個人的な話からで恐縮だが、私はまだ琵琶湖を見たことがないし、滋賀県に行ったこともない。ただどういうわけだか、三遊亭わん丈さんという落語家の、これまた珍しい演目である『近江八景』という噺を偶然にも聞いたことがあり、まるで聞いたことも見たこともない地名なのに解説が上手かった(当たり前)ものだから、琵琶湖の景色がどれだけ素晴らしいものかは既に知った気になっている。

行ったことはないけれども、近江と琵琶湖の形だけは地図で何べんも見ている。琵琶湖の景色は知らずとも、近江にとって琵琶湖がどのような存在であるのかは、なんとなく想像できる。この歌は、外の人間が読んでも「なるほど、琵琶湖と近江はやはりそういう関係だったか」と納得してしまうような、物凄く「しっくり」くるものとなっている。

東京に「ここ滋賀」という滋賀県のアンテナショップがあって、店のロゴは当然琵琶湖の形。あの形だけで琵琶湖=滋賀と理解させてしまう浸透度は、立派なものだと思う。

縁がなくてまだ未踏の滋賀。いつか必ず訪れて、琵琶湖を眺めながら冒頭の歌を呟いてみたい。


駅蕎麦の薄口のつゆを掻き混ぜて丁寧に掬う最後の一本/しゅろ

実家に戻る朝の新幹線のホームで、しばしば駅そばを食べる。

特別な気分の特別な朝は、なんの変哲もない醤油のつゆに湯がいただけのそばですらご馳走だ。

隣で立ち食いしていた50代くらいの女性が、店の外に夫を待たせたまま「ああおいしい、おいしい」と呟きながら、そばを啜っていた。二回ほど夫が店内に入ってきて、「どう、おいしい?」と聞き、「うん、ほんとおいしい」というやりとりをしていた。

ホームでよく見かける立ち食いそば屋も、失われつつあるかつての旅情のひとつなのかもしれない。そばそのものはチープなものかもしれないが、旅立つ前の高揚感の中で食べるそばは格別。きっとその女性もその一連の行為にあこがれていて、人生で一度はやってみたかったことだったのだろう。

特別な気分と印象的なやりとりが相まってより特別になった一杯のかけそばを、よりもったいをつけて食べたものである。

出典:自作

白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり/若山牧水

酒を愛した歌人として知られる若山牧水。中でも特に有名なこの歌は、涼しくなってきた秋のこの時期にぴったりである。

しらたま、しみとほる、しづかにと、三つの「し」がリズミカル。音からも静謐さが伝わってくるよう。

しみとおるような酒となると、やはり日本酒だろう。ビールでもワインでもないことはわかる。最近はワイングラスで飲むようなオシャレな日本酒も浸透しつつあるけれども、ひとり静かに飲む日本酒ならば、やはりお猪口がいい。

テレビを消して、部屋も少し暗くして、窓辺で月を見ながら秋風に吹かれ、ひとり酒をあおる。本当にそんなことをしてみたくなるような、とても味わい深い名歌である。

わけもなく家出したくてたまらない 一人暮らしの部屋にいるのに/枡野浩一

明らかに仕事のし過ぎである。帰っても帰った気がしないほど、仕事詰めなのであろう。「一人暮らし」なのが、余計に帰るところのなさを物語っているのかもしれない。これが実家や家庭持ちであれば、そこが帰る場所になる。行き場のないサラリーマンの心の叫びだ。

最近ツイッターでバズっていたこれも同じ路線。

この国の人々はもっと休まなきゃいけない。

冒頭の歌の作者にはこんな歌もある。
こんなにもふざけた今日がある以上どんな明日でもありうるだろう

どうしようもなく理不尽で、どうにもならないくらい酷い目にあった日があったとしても、今日という日は確実に過ぎ行く。明日はマシになるかもしれないし、考えられないほど良いことが起こるかもしれない。もし今がどん底でも、この歌ひとつで前を向ける気がしてくる。

みんな大変な日々を送っているのだと思う。もっと思ったことを歌に、言葉にしていくべきだと思う。その叫びはきっと誰かの胸をうつはず。

私も思うところあってひとつ。

やめるやめるいつも同期に言い続け気付けばひとり 秋風ぞ吹く

瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ/崇徳院

岩でせき止められふたつにわれてしまった水の流れも、やがてはまた合流するように、自分たちもやがては再会したいと思っているという意味。「瀬を早み」、「岩にせかるる」、「割れても末に」とsのリズムが小気味良い一首である。

この歌を取り込んだ落語があって、歌の作者である『崇徳院』という演目で知られる。歌の意味とそれほど関係なかったりするのだが、そこが落語らしくて良い。立川談春師匠のものを聴いたが、大変おもしろかった。

落語にはもうひとつ、『ちはやふる』という百人一首から生まれた演目があって、こちらは「ちはやふるの歌の内容を知ったかぶる」という、より直接的にナンセンスなお話。真面目に短歌を勉強している人がみたら、怒ってしまうかもしれない。

百人一首も落語も日本の大切な文化。どちらもわかると、より豊かな人生が送れる…かも。

出典:
『詞花集』恋・228、百人一首77番

立ち別れいなばの山の峰におふる松とし聞かば今帰り来む/在原行平

因幡と往なば、松と待つが掛かっている。都を離れこれから因幡へ向かう私だが、都のみなが待っていると聞いたならすぐにでも帰ってこよう、という意味。

いなくなった猫(やペットなど)が戻ってくるようにと、願掛けにも使われる有名な歌である。

二日前にも百人一首を取り上げたが、掛詞のような技巧は意味を知るほどおもしろい。さらにこの歌は、英語に訳しても掛詞になるらしい。

1000年残るような歌の魅力ははかりしれない。

やまのこのはこぞうというだいめいはひらがなすぎてわからなかった/やすたけまり

文章を書いていると、何をひらがなにしてどこまでを漢字にするか常に意識する。

漢字の持つ堅さとひらがなの持つ柔らかさは、文章そのものの内容も左右するほどに違うイメージを与える。私もひらがなを多用するほうだが、「ひらがな」だって平仮名じゃないな、と思って書いている。

ただ、バランスは大事。ひらがなは表音文字なので、ぱっと見には弱い。ひらがなの割合が増えるほど読みずらい。冒頭の一首は、読みずらいひらがな文章への感覚を端的に表している。

ひらがなすぎてわからない「やまのこのはこぞう」だが、山の子の/ハコゾウと読んでしまいそうになる仕掛けもうまい。きっと「山の木の葉小僧」というのが正しい題名なのだろう。

パズルのような作りの、遊び心がある歌である。

出典:

かくとだにえやは伊吹のさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを/藤原実方朝臣

これほどまでに思っていることさえ言えません。私の燃えるような思いをあなたはご存知ないのでしょうね、という意味。

「かく」は恋をしている、「えやはいふ」は「どうして言えようか、言えない」という意味で、いふが伊吹(いぶき)に掛かる。さしも草は伊吹の名産であるもぐさ。燃ゆるとさしも草は縁語になっていて、「さしも知らじな」の序詞にもなっているという非常にテクニカルな一首。

百人一首の現代語訳などは今でも定期的に出されたりするものだが、この歌のような技巧を凝らした歌を言い換えてしまうと、もはやこの歌の価値するところがなくなってしまうことくらいは知っておきたいもの。

意味としてはわりとストレートな恋愛歌だけれども、それ以上に掛詞、縁語、「さしも」の繰り返しなどなど、技巧が光る名歌。口に出して覚えたい一首である。

出典:
『後拾遺集』恋一・612、百人一首51番

玉川上水いつまでながれているんだよ人のからだをかってにつかって/望月裕二郎

先日13日から上映されている、『人間失格 太宰治と3人の女たち』を見てきた。


今もなお人々を惹き付けてやまない太宰治の作品やその人生。結局、人間失格と言いながら、誰よりも人間的魅力に溢れていたというのが皮肉だ。

そんな太宰治が最期に選んだ地が玉川上水。太宰の作品は知らずとも、このエピソードだけならほとんどの日本人が知っているのではないか。

それくらい強烈なイメージを植え付けられてしまった「玉川上水」氏にしてみれば、たまったものではない。まさに、冒頭のように嘆いている声が聞こえてくるようだ。

太宰と一言も言わずして、玉川上水がぼやくだけで勝手に太宰が連想されるユニークな一首である。

出典:

月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月/詠み人知らず

月をみるなら今月(9月)だ、見る価値があるのは今月のこの月(名月)だ。二つの解釈ができる歌。

昨日が中秋の名月だった。ふと見上げた月が本当に綺麗で、もしかしたらと思ってググったらやはり満月の日であった。

とても明るくてくっきり見えていたので、写真にでもおさめようと思ったのだが、流石にスマホではろくなものにならなかった。

昔から歌や詩に詠まれることの多い名月。そうした歌や詩のほうが、写真で撮るよりもよほど月の美しさが伝わってくるのが不思議だ。

もういやだ死にたい そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい/岡野大嗣

現代的な意味での「死にたい」を正確に言い当てた歌だろう。

幸い、私自身は「死にたい」と思ったことはないし口走ったこともないのだが、しばしば耳にする言葉ではある。

我が国は言霊信仰というのがあり、古来から「言ったことが本当になる」考え方は根強い。私もどことなくそのように感じていることもあって、冗談でも「死にたい」とは口にしない考えを持っている。

「死にたい」と口にする人の多くは、本当に死にたいと思っているわけではないのは、百も承知である。しかし、人間どこでどう追い込まれるかわからないわけで、すべてをなげうって楽になりたい場面というのは訪れる。

そんな時、一度人生をログアウトできたらどれだけありがたいか。自分がログアウトしても世の中は勝手に回っていくわけで、忘れた頃にしれっと戻れる人生があったら、それは確かに悪くない。

「死にたい」に対して、「死んだら終わりだよ」と返すのはナンセンスだ。そんなの言っている本人が一番わかっている。第一、誰かの返しを期待して言うわけでもないだろう。歯をくいしばって、それでも生きたいと思っているから、逆の言葉が口をつくのだ。

だったらせめてこの歌を覚えて、「もういやだ死にたい」を叫んだあとで呪文のように呟くがいい。

そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい…

出典:

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる/藤原敏行朝臣

立秋の日に詠まれた歌だそうだ。目にははっきりとは見えないけれど、風の音で秋が来たことに気付かされた、の意。

暑い暑いと言っていても確かに秋は来ているんだな、というシンプルな発見が表れている。

今年も暑かったが、過ぎてしまえばさみしいのが夏。涼しくなって欲しいが、秋は来て欲しくない。この二重感覚、わかるだろうか。

出典:
古今集・秋上・169

こんなにも広き空ありて地平ありてこの世の誤解は解く術がない/三枝昂之

これほどの真理に気づいてしまったのに、悲観するのでも達観するのでもなく、ただ朗々と歌い上げている感じがする。

些細なことから、一生会わない関係になったり、取り返しのつかない事態に陥ったりすることがある。

当人にとってみれば一大事だが、ふと顔を上げてみれば自分には及びもつかない広い空と大地。人間関係のいざこざとは、かくもちっぽけなものかと思わされる。

字余りたっぷりの言い回しに、広き空と地平の雄大さが表れている。この世の誤解は解く術がない、まさしく。ちっぽけな人間関係を離れて、もっと自然感覚で生きていたい。

むずかしい時代来たると人は言うかんたんな時代かつてありしか/田中章義

AIの時代だ、多様性の時代だ、グローバルだ、コミュ力だ、シンギュラリティーだ。さまざまな言葉とともに、今は激動の時代だと付け加えたらいっぱしの評論になる。

いつの時代も今生きるこの時代が一番大変だ。いろんな理由を付けて「むずかしい時代だ」と言っておくことが、大変な今を生きるせめてもの慰めになるのかもしれない。

これまでもそうでこれからもそうであろうポイントを見抜いた、作者の慧眼に唸る一首である。

出典:

不思議なり千の音符のただ一つ弾きちがへてもへんな音がす/奥村晃作

まだ未読だが、いつか読もうと思っている本がある。

きっかけはこの本の内容紹介。全文引用しよう。

「大体みんな、三、四歳の時から一日平均六、七時間はピアノを弾いているのだ。たった一曲を弾くのに、例えばラフマニノフの「ピアノ協奏曲第三番」では、私自ら半日かかって数えたところでは、二万八千七百三十六個のオタマジャクシを、頭と体で覚えて弾くのである。(中略)すべてが大袈裟で、極端で、間が抜けていて、どこかおかしくて、しかもやたらと真面目なのは、当り前のことではないだろうか。そしてここでも類は友を呼び、蛮族の周りには蛮族が集まる……」(本文より)

音楽をかじった者なら、楽譜を眺めて一度は思ったことがあるだろう。演奏をするとはよくもまあ、こんなに大量に並んだオタマジャクシ=音符を正確に再現しようとするものなのだろうか。何千、何万と並んでいる中のたったの一音でもずれたり欠けたりしたら、もうその曲はその曲でなくなるのである。ピアニストだって同じこと考えるのだ。

音楽は本来即興的なもので、楽譜に書かれた音符を正確に再現するものだけが音楽というわけではない。ただモーツァルトの楽曲には、本当に一音も変えられない完璧な音楽があるそうで、つくづく音楽の神秘や創造物の奇跡を考えさせられる。

この街と話をしたいこの街と寝てこの街に溶けていきたい/小林久美子

優れた広告コピーのごとく、置物のような自然な雰囲気のある一首。

新しく「この街」に越して来たときの飾らない決意なのだろうか。

「この街」をまるで人のように扱っているところからも、他人行儀でなく、一緒に付き合っていきたいという姿勢が感じられる。

いや、付き合っていきたい、よりもう一歩踏み込んでいるか。「溶けていきたい」とまで言っているのだから。

生まれ故郷が「親」だとするならば、生涯骨を埋めると決めた街はさしずめ「恋人」といったところ。

一生をかけて住んでいきたいと思える「この街」と出会えたならば、どんなに幸せなことだろう。

出典:
小林久美子『ピラルク』

寂しさに 宿を立ち出でて 眺むれば いづこも同じ 秋の夕暮れ/良暹法師

だんだんと秋を感じはじめている。

秋はあんまり好きではない。秋よりは春がいいし、冬よりは夏がいい。秋という季節自体、そこはかとないさびしさを感じる。あれだけ夏のきびしさを味わってもなお、秋に向かっているというさびしさよりはましだと思えるほど。

百人一首を見ていても、秋はだいたいさびしい。

奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の  声きく時ぞ 秋は悲しき

解説も要らないほど、とことん寂しくて悲しい方向に突っ込んでいくので、もうちょっとポジティブな要素が入っていてほしい。

あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む

歌としてものすごく良くできているので好きなのだが、やっぱり秋は寂しい。

私はかなしい話は好きなのだが、たとえば『風立ちぬ』とか『四月は君の嘘』のような、ポジティブな面が残っているようなものがいい。漢字で書くなら「哀しい」。一方的に沈んでいくのではなくて、それでもまだ立ち上がっていこうとする兆しが見えるような。だからこそ、感動するし、単なる「悲しい」話から一段深い物語になるものだと思っている。

さだまさしの曲だったら、『秋桜』より『極光』が好き。前者が悲しい曲なら、後者は哀しい曲。知名度は前者のほうが圧倒的だが、詩の完成度でいったら間違いなく後者。ちなみに念のため読み方だが、前者は「コスモス」、後者は「オーロラ」と読む。当て字のセンスに関してはどちらもずば抜けている。さらにちなむと、コスモスと打って秋桜と変換されるのは、この曲があるからだそう。それまでは「あきざくら」としか読まなかった。

悲しいと哀しいの区別。私としては棲み分けができているのだが、この違い理解していただけるだろうか。

歌詞

『秋桜』


『極光』


出典:
『後拾遺集』秋・333、百人一首70番

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