短歌で随筆

一日一首、紹介&雑感。『フリックでコラム』の副ブログです。

小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ/藤原忠平
小倉山の紅葉よ、人の心があるならば今一度天皇の行幸があるまで散らずに待っていてほしい。

京都の小倉山荘には、夏に訪れたことがある。今でも紅葉の名所として知られる場所。今年は事情が事情なだけに行かれないと思うが、いつか紅葉狩りに行ってみたいところのひとつだ。

ちなみに、百人一首で検索すると間違いなく一番上に出る『小倉山荘』、本店で食事したことがある。

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百人一首の解説も素晴らしいし、料理も良かった。是非また行きたい。

君に逢ひて今帰りつつ行方なくしかも惑へるこの愁ひはも/新井洸
恋人に逢った帰りの行方のなさ。困惑で自分を失う様が歌われる。

恋人に逢ったあとなのだから、楽しかったでも、寂しいでも良いはずなのに、惑い、愁えているところが、複雑な心境をよく表している。

あのときの自分の気持ちはこんな風だったのかもと、言葉を当ててくれるような一首である。

組織さへ持たず貧しく沈黙のうちに守れる正しきも見よ/鈴木幸輔

黙っていることが静かな抵抗になるような場面もある。

昔から沈黙は金などと言うが、どちらかというと今はマイナスなイメージが強いのではないか。

言うときには言い、口をつぐむべきときには黙る。かっこいい一首である。

いさぎよき空の気色をたのむかな我まどはすな秋の夜の月/行尊

秋の夜の月が誰か導く者を象徴する。

この混沌の世界を変わらずに照らし続ける月。千年たっても日本人の感性は同じようだ。

月面に脚が降り立つそのときもわれらは愛し愛されたきを/村木道彦
人類が月に降り立ってから半世紀が過ぎた。

実際の月面はクレーターだらけだとか、月そのものは真っ暗だとか、今を生きる我々はある意味ではロマンを失ってしまっている。

そうは言っても、実際に月に行った人なんて数えるほどしかいないわけだし、月は今でも美しいものだ。

月とロマンと言われて忘れられないのがこの作品。
かぐや姫をモチーフにした話があって、これがなかなか衝撃的。まだまだ月にはロマンがあるようだ。

物の葉やあそぶ蜆蝶しじみはすずしくてみなあはれなり風に逸れゆく/北原白秋
立秋の歌。

気がつけば立秋も過ぎ、随分と涼しくなった。

季節はずれのマスクも、再び時期相応のものになりつつある。

せめて文学の上だけでも、ちゃんとした秋を感じていきたいものだ。

わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣船/小野篁
隠岐へ流された折に作られたもの。勇ましく出発を宣言しているように見えるところが、かえって寂しさを強調している。

ちなみに「わたの原」はもう一首。

わたの原漕ぎ出でて見れば久かたの雲ゐにまがふ沖つ白波/藤原忠通

こちらは純粋に海の景色を表現したもの。雲と見紛うほどの白波がたっていた、とする。

おなじ言葉から始まり、まったく違う内容でおさまるふたつをあえて百人一首に入れたのは、やはり意図的なのだろうか。

知るほどに百人一首はおもしろい。

今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな/素性法師

「秋の夜は長い」ことを織り込んだ恋の歌。女性の立場で歌われているのも興味深い。

それにしても、人を待つだけで朝を迎えるだけの優雅な時間の使い方をしてみたいものである。これからの時代、間違いなく自由に使える時間は増えていく。その時をどう過ごすかは、ひとりひとりの人生観にかかっている。

中島らもは『今夜、すべてのバーで』の中でこう書いた。教養とは「ひとりで時間をつぶせる技術」だと。

歌とともに生きた平安貴族は、今こそ参考にするべき生き方なのかもしれない。

夏が来て綿毛は空へ放たれた 自由になりたいわけじゃなかった/嶋田さくらこ

しばしば自由の象徴のように扱われるたんぽぽの綿毛も、見方を変えるとこうなるのだ。

鳥のひなが初めて飛行するのとはわけが違う。綿毛は自由に空に舞っているというよりは、「空へ放たれた」存在だった。

我々人間も生まれたくて生まれたわけではなく、「空へ放たれた」存在であることに変わりはないのかもしれない。今度からたんぽぽの綿毛を見たときは、綿毛は自由でいいなあという目線でなく、お互い不本意な生だろうと頑張ろうよとなるだろう。

従来の綿毛イメージを転倒させる力のある歌てある。

月みればちぢにものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど/大江千里

秋=かなしい、というイメージで生きてきたが、これは日本人に染み付いた感性なのだろうか。徐々に長くなる秋の夜を過ごしているうちに、自然と物思いに耽り、鬱々としてくるのかもしれない。

この歌も、自分だけ訪れた秋ではないのに、どうしてかかなしくなるとしている。ひとりで涼しい秋の夜空を眺めてみると、なんだかこの歌と同じ気分になれたようで感動も大きい。お試しあれ。

山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり/春道列樹

山川に風がかけた柵は、流れきれずにいる紅葉だったよ。

風がかける、と風を人に見立てて歌う方法は当時最先端だったとか。今でこそよく見られる表現だが、この時から始まったと知ると感慨深い。

百人一首には他にも紅葉の歌があって、ちはやふる〜や、このたびは〜、と名歌揃い。その二つに比べると地味な歌だが、当時最先端の技法だったという歴史を知った上でみると、映えある一首だったのであろう。

秋のあめふいにやさしも街なかをレプリカントのごとく歩めば/大塚寅彦

レプリカントは人間型のロボット。

秋の雨に象徴される、世界と「私」との距離感。決して溶けきることのない秋の空気が、どれほど似ていても結局はロボットであるレプリカントの気持ちに重ねられる。

秋特有の情緒が活きた一首である。

秋はなほ夕まぐれこそただならね荻のうは風萩のした露/藤原義孝
荻の上風、萩の下露。対比が映える一首だ。

秋の夕暮は心がかき乱されると歌う。秋独特の感傷を秋の風景に重ね合わせる。

今の時期に諳んじてみたい和歌である。

君待つと我が恋ひをればわがやどの簾動かし秋の風吹く/額田王

あなたを恋しく思って待っていると、部屋の簾を動かして秋の風が入ってくる、あなたではなく。

朝晩の気温も下がってきて、いよいよ秋の到来を感じる。

日本人は昔から四季を讃えてきたが、どうにも夏だけは好きになれなかったそうなのだ。高温多湿な日本の夏は、いかんともし難い。今のようにクーラーなどないから、夏をいかに凌ぐかを最優先に家を建てているほどである。

とはいえ、過ぎてしまえば寂しくなるのが夏。

秋がどことなく寂しさを含むのは、真っ最中には心から好きになれない夏への郷愁なのかもしれない。

此の職にたけて帰る日いつならん夕べさびしく汗の冷えつる/松倉米吉

労働の厳しさと孤独の辛さがしみる。

いつか熟達して「帰る日」を夢見た青年は、結局帰る日がないまま貧困で亡くなったという。

たまには苦しいことがある自分も、この作者の境遇を思えばもう少し頑張ってみる気になるものだ。

病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑の黄なる月の出/北原白秋
ハモニカを吹く元気があるくらいなのだから、それほど重度ではない病気なのだろう。微熱がもたらす、現実と夢とがない混ぜになったような浮遊感が伝わってくる。

そのまま絵本になりそうな美しい描写。視覚、聴覚に加えて、体温まで感じ取れる。見事な歌である。

暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月/和泉式部

法華経に因んだ歌だそうだ。煩悩の闇に迷い込んでしまった自分を導いてほしい、という意。

宗教的な深みと映像的なわかりやすさがマッチしている。

はるかに照らせ、の言い切りが新鮮。かっこいい一首である。

をりをりにあそぶいとはまはある人のいとまなしとて書ふみ読まぬかな/本居宣長

遊ぶ時間はある人が、暇がないといって書物を読まないことだ。

耳が痛い内容である。本当に読んでいる人は、どんな隙間時間でも読んでいるもの。

息をするように学問がしたいものである。

ああ我は秋のみそらの流れ雲たださばかりにかろくありたや/片山広子
作者は非常に知的な女性であったそうだ。周囲から頭脳明晰、冷静沈着に見られたのであろう作者も、人には明かさない苦労もあったのだろう。

思わず口をついて出たかのようなこの歌。流れ雲でありたい、そんな風に軽くありたい。短歌という形だからこそ吐露できた思いが詰まっている。感慨のこもった一首だ。

さよふくる窓のともし火つくづくと影もしづけし我もしづけし/光厳天皇

火を見つめながら物思いにふける、風情のある歌だ。

これが今の時代だと、YouTubeの火を見つめるだけの動画などになるのだろうか。表現はまるで違うが本質的には今も昔も同じことをしている。

「し」と「づ」のリフレインもおもしろい。時代を超えて響く良い歌である。

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